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ばったり会う意味をスピリチュアルに考えたらとんでもない事実が浮上

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ばったり会うのは偶然か?

はっきりと言いましょう。

あなたは「ばったり会う」という現象は偶然ではない、と思いたいんでしょう?
その方があなたにとって都合が良いんでしょう?
だから、ネットで「ばったり会うのは偶然ではない」という説明を探しているんでしょう?

でもその説明に「合理性」はありますか?
特にスピリチュアルな説明に限って、それは神の思し召しだとか運命だとか、何ひとつ合理的とは思えない内容に終始しています。

そんな説明であなたは満足ですか?
それじゃどこかの怪しげな占い師に占ってもらった運勢と変わらないんじゃないですか?

ということで、今回は「ばったり会う」ことについてスピリチュアルかつ合理的な説明を試みたいと思います。

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ばったり会う現象は「偶然」で説明出来てしまう

まず最初にはっきりさせておきましょう。

ばったり会うという現象は100%偶然の出来事です。
そこに必然なんて欠片ほども存在しません。
これはあなたが求めている答えではないかもしれませんが、しかたがありません。

恐らくあなたが見てきた他サイトには「ばったり会うなんて偶然を装った運命のいたずら」とか書いてあったんじゃないですか?

そして「その出会いは必然です」とか書かれていたのでは?

いいですか、必然というのは「起きるべくして起きること、必ず起きること」であり、そこにはそれが起きるための強い因果関係が必要です。
でもあなたが何年ぶりかでばったり出会った過去の友人は、そのときその場所で出会うための因果関係が存在しましたか?

存在しないでしょう?

それは世の中がひっくり返ってもただの「偶然」に過ぎません。
それは認めるべきことです。
偶然なんです、偶然。

ただし、これをスピリチュアルな視点で考えた場合、事情は少し変わってきてしまいます。

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科学とスピリチュアルの視座の違いを知る

ばったり会うことに合理的な説明をしようとすれば、それは「不可能」となります。

なぜなら合理的とは「道理や理屈にかなっていること」という意味だからです。
道理とは「正しい論理」のことで「ある事物間に存在する法則的な筋道」です。
つまり合理的とは「ちゃんと法則的な筋道が存在する理論」のことです。

このことを「ばったり会う」に当てはめてみると、どう考えてもその出会いに「ちゃんとした法則的な筋道」なんて存在しませんよね?
つまり、ばったり会うことの合理的な説明は不可能なんです。

これはあくまで「合理的」な説明にこだわった場合で、科学的な視点と言えます。

 

科学はあくまで「存在するもの」のためにある

なぜ科学の視点では説明が出来ないのか?

簡単なことです。
ばったり会うという現象は「形のないもの」だからですね。
形のないものは存在しないというのが科学の基本ですから、存在しないものについての説明は科学の担当範囲ではないということになります。

もちろん、論理的に考えて存在するはずのものの存在が確認できない(たとえば宇宙空間を満たしていると考えられているダークマターというものは理論的には存在しそうですが、その存在は確認できていません)ものについては研究対象になりますが。

合理的な説明というのは、存在が確認できないものに関しては非常に困難です。

ひとつの例が宇宙人の存在です。
宇宙人の存在は数多くの目撃談があるにもかかわらず、その存在について合理的な説明ができていません。

それは宇宙人を目撃したという話のほとんどについて、「見間違い」とか「目の錯覚」あるいは「記憶の混同」など、実際には目撃していないという立場での説明を覆すだけの証拠が存在しないためです。

宇宙人を目撃したかもしれないが、合理的に考えるとありえない・・・

みたいなことになってしまうんですね。
実証至上主義とも言える科学の立場では、合理的な説明すら出来ないことを認めることは出来ない、ということなんでしょう。

ですから「これこれこういう理由があったので」ばったり会った、という「合理的」な説明が出来ない以上、これは偶然以外の何物でもないということになるんです。

 

スピリチュアルは「存在しないもの」のためにある

これに対しスピリチュアルは真逆の立場をとります。

スピリチュアルは「存在しないもの」を対象としたものなので、存在しないものごとに関して説明を試みます。

先ほどの宇宙人の目撃に関しても、確証がないからといって一刀両断にはしません。
たとえ科学では「錯覚」とか「見間違い」で説明出来てしまったとしても、なぜそれを宇宙人と思ったのか、についてさまざまな角度から考えて行きます。

その結果、多くの場合ではやはり「見間違い」みたいだね、となることも多いのですが、なかにはどう考えても「見間違い」「錯覚」では説明しきれないものが僅かながら存在してしまうんです。

スピリチュアルでは、こうした合理的な説明が出来ない事象がなぜ存在するかに向き合います。

そしてどう考えてもそれが宇宙からやってきたと考えるのが最も無理のない説明だとすれば、それを積極的に認めていこうとします。
つまり、スピリチュアルとは科学のように「説明出来ないから存在しない」ではなく、

説明出来ないものの存在を追い求めている、と言えるんです。

 

 

スピリチュアル的に考える「ばったり会う」意味とは?

現象として考えれば、それが科学であろうとスピリチュアルであろうと「ばったり会う」のはやはり偶然と言えます。
これを「必然」と言ってしまうのはスピリチュアルの視点といえども強引に過ぎます。

しかし、ここで重要なのは「その偶然が何故起きたのか」です。

え、なにを訳の分からないことを言っているの?
偶然に理由なんてないでしょう、だから偶然なんだから。
そういう意味不明なことを言うのは止めてもらいたい!

とお思いなら、あなたも相当「科学」に毒されていると言えますね。

確かに科学では偶然は意味のない出来事と理解してそれでおしまいですが、スピリチュアルではそこでおしまいにはしないんです。

なぜ意味のない出来事が起きるのだろう?
意味のないように見えるけれども、そこには何か「意味」があるに違いない。
その意味ってなんだろう?

これがスピリチュアルの視点なわけですが、これって科学的に見れば単なる「屁理屈」「強引なこじつけ」「妄想」と言うことになるんです。
事実の積み上げでその事象を考える科学と、事象そのものが起きた理由を求めるスピリチュアルは、そういう意味では受け持ち範囲が異なるといえます。

で、スピリチュアル的にばったり会うという現象を考えると、さまざまな意味が考えられるようになります。

 

ばったり会うための「お膳立て」

小学校時代の友人に何十年かぶりでばったり会う・・・

科学的にはあくまで「偶然」の出来事にすぎませんが、スピリチュアルでは以下のように考えます。

日本中には億を超える日本人が住んでいて、そうした人たちと毎日のように町中ですれ違い、電車で同じ車両に乗り合わせ、同じラーメン屋でチャーシュー麺をすすっているわけですが、そうした「偶然」の出会いをほぼ100%覚えていることはありません。

これが知り合いなら、同じラーメン屋に居合わせれば気付くこともあるでしょう。

しかし小学校時代の友人となると、子供のころから何十年も会っていないわけだし風貌も体型も何もかもが違ってしまっているわけで、そんな状況で気付くことは逆に難しいでしょう。

つまり、偶然にもばったり会うことがあったとしても、気付くことなく通り過ぎてしまうことの方が可能性としては遙かに大きいといえます。

小学校時代の友人とラーメン屋でばったり会うなんて、天文学的な確率で起こりえないことなのにそれが起きる・・・そして昔の面影すらほとんど残っていないその友人に気付くこともまたもの凄く稀なことでしょう。

それなのに、それは起きたんです。

この出来事を考える際に、その場にふたりが居合わせること自体が天文学的な確率なのに居合わせたということ、そして面影すら無いに等しい昔の友人に気付くというふたつの「起きるはずのない」出来事が重なったということが唯一の手がかりとなります。

小学校時代に仲がよかった友人だから、たとえ僅かとはいえその面影に気付く。

これは十分に考えられることです。
でも、多くの場合よほどのことがない限り「あれ、どこかで見たような気がするな」程度で終わってしまい、それ以上深く考えないのではないでしょうか?

それを「あれ?もしかして・・・」とあなたの中でビットが立つということは、あなたが気付いているかいないかは別にしてその友人はあなたの中でそれなりに大きな存在だったといえるでしょう。

つまり、何十年ぶりかでばったり会ったときに「あれ、おまえもしかして○○じゃね?」って思い出すためには、そのためのお膳立てが必要だと言うことです。
それが小学校時代の「ふたりの関係」ということになります。

今日ラーメン屋でばったり出会い「それに気付くため」に小学校時代に仲良しになったと考えることもできませんか?
その段階から今日の出会いのためにお膳立てが成されていた・・・

 

馬鹿げた考えを真剣に考える

このような考えを「馬鹿げた考え」と笑う人がほとんどでしょう。

でも、もしこのラーメン屋での出会いがきっかけでこの友人と意気投合し事業を興し大成功でもしたとしたら、これは笑い事では済まされません。

あのときラーメン屋でばったり出会わなければ、仮に同じラーメン屋に居合わせても小学校時代に仲が良くなければ、また仲が良かったとしても居合わせた昔の友人に気付かなければ・・・その事業の成功はなかった筈なんです。

スピリチュアルでは時系列を超えた考え方をしばしばします。

それは過去・現在・未来は一直線上に並んで順番に起きることではなく、すべてが同じ次元に存在している、と考えるんです。
未来のある出来事は過去・現在を含めてひとつの事象である、と。

小学校時代に仲のよかった友人と何十年か後にラーメン屋でばったり会う、そして意気投合して事業を興し大成功する。
この一連の出来事は最初からひとつの事象として存在する、と。

馬鹿げたことと思いますか?

でもこうした偶然の再会、ばったり会うということを単なる「偶然」として流してしまうのって、なにか途轍もなく大きなイベントを見逃しているように思えませんか?
なにを馬鹿げたことを、と笑うのではなく馬鹿げたことを真剣に考えてみても良いんじゃないでしょうか?

 

まとめ

今回は「ばったり会う」という事象についてスピリチュアルな視点で考えてみました。

ばったり会うこと自体はどこまで行っても「偶然」なのかもしれません。

いかしそれが「意味のある偶然」か「意味のない偶然」かを考えてみても良いんじゃないでしょうか?

あなたにとってその偶然の出会いが意味のあるものならば、その偶然の出会いから未来が大きく変化する可能性は十分にあります。

こう考えると、ものごとを合理的に考えるだけではなくスピリチュアルな視点で考えるのも決して悪くはないと思えませんか?

なお、ばったり会うことについて少し違った角度から説明した記事もありますので併せてお読みくださいね。

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