人は死んだらどうなるのでしょうか?
死に対する理解は人それぞれです。
・死んだら無になる
・無になるのではなく別の物質に変化する
・肉体は死んでも魂は永遠に生き続ける
さまざまな主張があることは理解した上で、それでも私は死んだら無になるという考えには否定的です。
今回は死について、特に死んだら無になるのかならないのかについて徹底的に解説していきたいと思います。
最初に結論
いきなりですが、最初に私なりの結論を述べてしまいますね。
私の結論。
死は無ではない。
その根拠についてはこれから順番に説明していきますが、死後も意識は存在し続ける、というのが私が長年スピリチュアル界に身を置いて自分の体験を通じて得た結論です。
ここで参考図書をご紹介しておきますね。
この本の著者は科学の視点から死というものは存在しない、と結論づけています。
これまで科学とスピリチュアルは相容れない立場をとり続けてきましたが、その橋渡しをするような内容の本です。
本書の内容は、私がヘミシンクという誘導瞑想ツールを利用して導き出した結論とほぼ同じでした。
科学とスピリチュアルという全く異なった側面から突き詰めていったにもかかわらず、結論が一緒と言うことに驚きを隠せません。
なお、ヘミシンクについては以下の記事を併せてお読みください。
▼関連記事▼
ヘミシンクとは?効果、やり方のコツ、おすすめCDを専門家が解説!
死んだら無になると主張する人たち
死んだら無になると主張する人たちは数多くいます。
死後どうなるかについての考え方としてはもっとも一般的なものといえるでしょう。
彼らの主張の拠り所は「科学」です。
科学では人間の意識は脳で形成されると説明します。
人が死ねば体のすべてが機能停止し、従って脳も機能停止します。
脳が機能停止してしまえばそれに伴って意識も消失してしまう・・・つまり無に帰す。
だから「死んだら無になる」と結論づけるわけですね。
しかしこの考えには大きな欠陥があります。
死んだら無になることを認めると、死ぬことが怖くなる
ちょっと考えてみてください。
もしもあなたが死んだとき、これまでの人生で経験してきたありとあらゆる出来事、楽しかったことや嬉しかったこと、辛かったこと、多くの人たちとの交流の記憶など、すべてが消えてなくなってしまうとしたら・・・
いったい何のために生きてきたのでしょうか?
いやいや、人生は一度きり、死んだらもう何も経験できなくなってしまうのだから、生きている内に悔いを残さないように精一杯人生を謳歌しよう。
こんなことを言う人もたくさんいますが、私には詭弁にしか聴こえません。
悔いのないように精一杯生きたとしても、ダラダラと何となく毎日を無為に生きたとしても、死んでしまえば全てが消えてなくなってしまうんですよ?
全てが消えてなくなってしまうのであれば、どんなに素晴らしい経験をしたとしても何の意味もないと思いませんか?
死によって全てがなかったことになってしまうなら、私たちは一体何のために生まれてくるのでしょうか?
あなたの大事な家族・・・奥様、お子さん、ご両親など、そういうかけがえのない人たちと過ごした素晴らしい時間の記憶も完全に消えてなくなってしまう。
それが「死んだら無」という考え方の意味です。
だからこそ死ぬまでの時間が大事、という考えもあります。
限られた時間の中で精一杯生きることに価値がある、瞬間瞬間を思い切り生きてさえいれば死を恐れることはない・・・
本当にそうでしょうか?
どんなに一生懸命に生きていたとしても、どんなに素晴らしい人生だとしても、死とともに全てが消えてなくなる、今までの全てが何一つ残らず完全に消失してしまうんです。
そして消失したことすら自分には認識することが出来ない。
だって意識が消えてなくなってしまうんですから。
何もかもが消えてなくなるということ以上に、何かがあったという認識さえなくなるわけです。
これって怖くないですか?
全てが消えてなくなるとき、自分はそれをどう感じるのか?
そんなことを考えても答えは出ません。
存在している自分が無になるという状況は完全に理解を超えた現象ですからね。
事ほど左様に、死んだら無になるとした場合、死ぬことが異常なほどに怖くなります。
全てが無になるという考えは合理的ではない
死んだら無・・・この考えはどこをどうとってみても合理的ではありません。
そもそも生まれてくる意味が説明できないし、生きる意味も意義も説明できません。
アメリカのエール大学で死についての講義を20年以上続けているケーガン博士によれば「人間は人としての機能を果たすだけの存在である」と説明しています。
だから死ねばすべては無に帰す、という考えを支持しています。
人生は1回ポッキリ、だからこそ質が問われる、その質こそが自分自身の価値なのだと。
エール大学で長年教壇に立っているわけですからそれなりに高く評価されている人なのかもしれませんが、そんな博士の説明を聴いても私にはやはり詭弁にしか聴こえません。
博士のいう「人生の質」がたとえどんなに素晴らしかったとしても、死ねば全て消えてなくなってしまう・・・だったらその人生の質にどれほどの意味があるのでしょう?
無に帰すために生まれてきて、無に帰すために人生の質を追求する・・・
こんな不合理なことはないと思いませんか?
死が無に帰すことではないと考える人たち
こうした「死=無」という考え方とは対照的に、死は決して無ではないと考える人たちがいます(私もそのひとりですが)
死ぬと全てが無に帰すという考えは、ベースに「科学」があると説明しました。
脳が機能停止すれば、脳が創り出した「意識」も脳とともに機能を停止、すなわち消えてなくなってしまう・・・というわけです。
しかし、意識は本当に脳で創り出されたものでしょうか?
もしも意識が脳で創り出されたものであると仮定した場合、いくつもの矛盾した事実が出てきます。
例えば「生まれ変わり」という現象です。
生まれ変わりの記憶を持った人というのは全人類の中にかなりの割合で存在します。
ある研究では、私たちは子どもの頃は誰でも前世の記憶を持っていたが成長とともにそれを忘れてしまった、といいます。
実は私も子どもが小さい頃に前世の記憶について尋ねたことがありましたが、前世ではなく生まれてくる前(前世と現世の間)の記憶を話してくれたことがありました。
この話については別の機会に譲るとして、小さな子どもは本当に生前の記憶を持っていることを実感した出来事がありました。
子どもがこうした前世の記憶を持っているという話は数多く存在します。
この辺につきましては以下の記事に詳しく説明しましたので併せてお読みくださいね。
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生まれ変わりの事例|日本における研究はかなり古くからあった?
この生まれ変わりという現象は、意識が脳で創り出されると仮定した場合にはまったく説明が付きません。
なぜなら生まれ変わりの記憶とは、自分が生まれる前に「別の人間」として生きていたときの記憶だからです。
自分が生まれる前の記憶を脳が創り出すことなんて出来ませんからね。
え、そんなのただの妄想でしょ?
いえいえ、ちゃんと確証のあるものもたくさんあります。
科学で説明はつきませんが、前世の記憶を持った人の存在はれっきとした事実なんです。
だとしたら、意識は脳で創り出されたものではないのでは?
こころとからだ、人間のぜんぶ
以前、あるカメラメーカーのコマーシャルに「こころとからだ、人間のぜんぶ」というコピーがありましたが覚えていますか?
カメラはどうでもいいんですが、
実はこの言葉が人間の本質を見事に表現しているんです。
つまり人間とは肉体だけの存在ではない、肉体とは別に意識(こころ)が存在している、と。
肉体は有限の存在ですから寿命が来れば機能停止します。
私たちはこの状態を死と表現しています。
しかし意識は肉体と一緒に機能停止するわけではありません。
肉体が朽ち果てても意識はそのまま肉体を離れて存在し続ける、そして時代を超えていくつもの肉体で人生経験を繰り返す・・・こう考えてはじめて生まれ変わりの記憶についても説明が出来るようになります。
また、幽体離脱(体外離脱)や遠隔透視(リモートビューイング)などについても、意識と肉体が別物であると考えることですべて説明できてしまいます。
人生の意味についての合理的な説明
さて、人間はなぜ生まれてくるのか?
この人生の意味については、死が無であるという前提の上にはどうにも説明が付きませんでした。
しかし「死が無ではない」という前提に立つと、全く違った世界が見えてきます。
死ぬことは無に帰すことではなく「ひとつの肉体における人生経験」が終わったということに過ぎません。
意識は機能しなくなった肉体から離れ、次の人生経験をするために別の肉体に宿ります。
そして「別の人間」として再び人生経験を始めるわけです。
こう考えると、人間の本質は肉体ではなく意識の方だということが分かります。
つまり私たちの人生とは、意識がさまざまな経験をするために用意された世界だということです。
意識はひとつの人生を始める際に「テーマ」を持って始めます。
今回の人生では○○について学ぼう、そのテーマに最も適した時代、国、両親、性別、肉体的特徴、性格などを選んで生まれてきます。
そう考えてはじめて「私たちはなぜ生まれてくるのか」の意味が分かります。
私たちの本質は肉体ではない。
そう考えれば、死ぬことは全ての終わりを意味しているわけではないことが理解出来ます。
【余談】親ガチャはウソ
ちょっと余談になりますが「親ガチャ」という言葉が世間で使われていますね。
親ガチャとは、子どもにとって親は選べない、だからどんな親の元に生まれるかで人生がある程度決まってしまう、という意味です。
そして「あー親ガチャ外れだよ」とか言っているわけです。
でも先ほどの説明の通り、私たちは自分で親を選んで生まれてきているんです。
自分の今回の人生のテーマに合った親の元に「自分がわざわざ選んで」生まれてきているんですよ。
ですから自分の人生が上手くいかない(という思い込み)を親のせいにするのはお門違いも甚だしいです。
そういう人生を自分で決めて、選んで生まれてきているのですから、いま自分が不幸だと感じていることすらあなた自身が選んでいることなんですよ。
そういう環境から何かを学ぶためにあえてあなたはその親を選んだんですから。
親ガチャなんてありえないんです。
・・・余談でした。笑
結局のところ
今回は、死んだら無になる、ということが全くのデタラメだという説明をしてきましたが如何でしたか?
人間は肉体だけではなく意識を持っている。
この意識は脳が創り出したものではなく肉体とは完全に独立した存在である。
そして人間の本質は肉体ではなく意識の方にある。
これら一連の前提に立つことで、死が無ではないことが明確に理解出来ます。
人間の死に関する問題は科学も含めてまだまだ分からないことだらけです。
今回説明した内容についても、現段階では確証を以て説明することは出来ません。
しかしこのように考えてはじめて、人生の本当の意味が見えてくると思いませんか?
ということで、今回はこの辺で。
最後までお読みいただきありがとうございました。