人間、死んだらどうなると思いますか?
え、そんなの無になるに決まってるでしょ。
人間死んだらすべてが消えて無くなっておしまい、ってね。
こういうことをいう人がいますが、それ本当でしょうか?
洋の東西、老若男女にかかわらず、すべての人間に例外なく訪れる「死」については昔からさまざまな議論が繰り返されてきました。
そして今でも死についての議論は盛んに続けられています。
これはひとえに死というものが「よくわからないもの」だからですね。
いまだに科学でも結論の出ない「死」について、今回はスピリチュアルな視点からじっくりと考えてみたいと思います。
死んだら無になるって、どういうこと?
まず、死んだらどうなるのかについて、過去にもいくつかの記事で書いています。
にもかかわらず、今回もまた死についての記事を書くのには理由があります。
それは死というものが掴みどころがなく、死んだらどうなるのかを明確に説明できないにもかかわらず、あなたや私を含めすべての人に必ず訪れるものだからです。
ある人は死ねば無になるといい、またある人は肉体は死んでも魂は死なないといい、さらに死後世界の存在まで言及する人もいる・・・
それぞれの人がそれぞれの「考え」で死というものを理解している。
特に宗教や哲学において、死というものの考えを深く追求してきた先人たちは枚挙にいとまがありません。
また2018年に日本語版が出版された「DEATH「死」とは何か」は、米イェール大学で23年も続く死についての講座をまとめたもので、死というものを忌避することなく真正面から捉え考え尽くしていきます。
死について分からないからこそ考える
この本に書かれている内容に関しても賛否両論がありますが、それは当然のことです。
死ぬのが怖いとか、死んだら無になることが怖いという感情を持っている人なら、これまでに死についていろいろと考えてきていることでしょう。
そして自分のできる限りの方法を使って死について調べたことでしょう。
もしかしたらその過程でこのサイトにたどり着いたのかもしれないですね。
実は私も若い頃から死ぬということが怖くてしかたがありませんでした。
死んだらどうなるのだろう、無になるって聞くけどそれってどんな感じなんだろう、そもそも自分が死ぬときに無になることがわかるのだろうか・・・
いくら考えても、いくら調べても満足のいく答えが出てこない。
10代のころにそんなことを考え始め、もう40年以上も経ってしまいました。
死については未だに世の中で広く認められる答えは出ていませんが、私なりに40年以上も考え続け、個人的には死とはどういうものか答えが出たと思っています。
とはいうものの、それはあくまで「私見」であり、世の中に広く認められるものではないことは百も承知しています。
それでも良いんです、私は科学者ではありませんから自分が納得できる答えにたどり着くことさえできればそれ以上を望むつもりはありません。
事ほどさように死というものは掴みどころのない、訳のわからないものなんです。
だから多くの人がその答えを求めて考え続けているということなんでしょう。
自分という存在が消失してしまう
では、私がたどり着いた「死」についての結論とはどういうものか説明しますね。
最初に死に関して明確になっている事実を確認しましょう。
私たちが死と認識しているものは、肉体の機能が停止した状態です。
生まれて成長し大人になって、それから幾年月が流れ肉体は徐々に老化していきます。
だんだん物忘れがひどくなり、目も見えにくくなっていく。
体も無理が利かなくなっていき、やがて他人の介護なしには何もできなくなっていく。
肉体が徐々に徐々に老化していき、ある瞬間にすべてが機能をしなくなる・・・これが死ですね。
このとき、肉体のすべての機能が停止します。
心臓も、呼吸も、神経系統も、すべての内臓も、そして当然ですが脳も、ぜんぶ機能停止します。
私たちの記憶や認識機能は脳にあると考えられているため、脳が機能停止してしまうことで脳に蓄えられていたすべての記憶も死とともに消失してしまう。
生きている間に経験した楽しかったこと、辛かったこと、ワクワクしたこと、胸ときめいたことなど、すべての経験も一緒に消えて無くなる。
つまり「自分という存在」そのものが死とともに消えて無くなってしまう。
これが科学のいう「死んだら無」ということの意味です。
科学、特に自然科学は研究対象が「観測可能」であることが前提ですから、死についても観測できる範囲でしか結論を得ることができません。
たとえば人が危険を感じたときに脳のどの部分が反応するかを「観測」し、そこから人間は危険を脳の部位である脳幹で察知する、と結論づけます。
こうしてあらゆる反応に対し脳がどう反応するかを観測しながら、脳と感情の関連を体系化してきているわけですね。
ところが人が死ぬと、当たり前ですが脳がいっさい反応しなくなります。
つまり観測できなくなってしまうわけです。
だから「死ぬと脳の反応がなくなるため、古い記憶を司っている大脳皮質も新しい記憶を司っている海馬も当然ながら反応しない、だから記憶も消えてしまう」と結論づけるわけですね。
観測できないものは「ある」とは言えない。
これが実証主義の立場をとる自然科学のスタンスですが、多くの人は「あるとは言えない」イコール「ない」と誤解してしまいます。
自然科学では「ない」とは言っていないんです。
あるとは言えないとは、あることを確認できないという意味です。
そういう意味では自然科学でも死が無であるとは言及していないことになります。
では、私たちは死ぬとどうなってしまうのでしょうか。
消えて無くなるのなら生きる意味とは何なのか?
ここで「死ぬと無になる」と仮定してみましょう。
無になるということは、今まで生きてきた記憶のすべてが消えて無くなってしまうということです。
あなたがどんな経験をしていようと、です。
胸を焦がすような大恋愛をしていようと、誰もが羨む経済的成功を手にしていようと、最高に幸せな家庭を築いていようと、すべてが消えて無くなってしまうんです。
もちろん、忘れてしまいたいような経験もあることでしょうし、むしろ消えてしまうほうがよい記憶もあるとは思います。
しかしそれらも全部ひっくるめて、あなたにとって掛け替えのない人生経験です。
どんな経験をしようとも、死ねばすべてが消えて無くなってしまう。
だとしたら。
私たちは何のために生まれてきて何のためにさまざまな経験をするのでしょうか。
最終的に無になってしまうなら、どんな人生を送ろうが大差ないよね・・・
なんて考える人もいるでしょうが、そう考えた途端に人生の意味が分からなくなってしまいます。
最終的に無になるのだから、生きている間は精一杯「生」を謳歌しよう。
そういう考えもあるとは思いますが、やはり私には消えて無くなるために生きるということに、どうしても違和感を感じてしまうんです。
だから死ぬと無になるという考えを受け入れることができず、死んでも「その先」があるに違いないと思い、その答えを探してきました。
死んでもその先があるなら、死んだらどうなるかをちゃんと知りたいと思いませんか?
そんな私がたどり着いた「自分なりの結論」が以下になります。
意識の存在をどう解釈するか
自然科学では観測できることが大前提ですが、これは言い換えれば「観測できないものは研究対象外」であるということです。
観測できるためには、対象となるものが「形がある」ことが必要です。
ですから自然科学では「人間は肉体」がすべてであると考えます。
人間は肉体がすべてですから、記憶や経験、感情などの意識もすべて肉体にあると考えます。
具体的には「記憶はすべて脳に蓄積される」と考えるため、肉体が機能停止すなわち死ねば脳も機能停止し、それとともにすべての意識も消失する、と。
人間が肉体だけの存在だとすれば、死とともに意識も消失すると考えざるを得ない訳です。
しかしよく考えてみてください。
意識すなわち記憶や経験、感情などが脳にあるとして、意識そのものを観測することはできません。
だって意識には「形がない」からです。
脳の海馬を傷つけると記憶の一部が喪失する・・・だから記憶は海馬に蓄積されている。
本当にこう結論づけても良いものでしょうか?
これはあくまで結果であって、記憶そのものを観察したわけではありません。
海馬を傷つけることによって脳が記憶を顕在化できなくなることは確かでしょうが、だからといって本当に記憶が消えて無くなったと言えるのでしょうか?
どうしても自然科学の視点からでは納得のいく説明ができない、というのが私の思いでした。
ここで自然科学ではなくスピリチュアルな視点で考えてみましょう。
スピリチュアルでは人間は肉体が全てである、とは考えません。
スピリチュアルでは「人間は肉体と意識が合わさってできている」と考えます。
つまり人間は肉体だけの存在ではなく、肉体とは別に「意識」が存在してそれが肉体と一体化している、と。
そして肉体は有限ですが意識は無限の存在と考えると、自然科学では説明できなかった多くのことが説明できるようになります。
つまり肉体はいずれ機能停止すなわち死にますが、意識は肉体とは独立して存在していますから肉体のように機能停止することはありません。
肉体の死と同時に、意識は肉体から離れます。
そして肉体が生きている世界とは別の世界、すなわち物質の存在しない世界「非物質世界」へと移行していきます。
非物質世界とは死後世界のことですね。
死後世界とは「肉体を持たない意識」の世界と言いかえることもできますが、意識は肉体の死後、死後世界を経由して新たな肉体と一緒になっていきます。
これが生まれ変わりということですね。
この死後世界の存在を認めてはじめて、生まれ変わり・前世・過去世・輪廻転生などを合理的に説明できるようになります。
え、そんなの証明のしようがないでしょうって?
はい、証明できません。
形のないものの存在を論理的に証明なんてできるわけがありません。
よく言われることですが、無いことの証明は不可能なんです。
意識の存在や死後世界の存在も然りで、形のないものの存在は証明できません。
しかし証明できないことと存在しないことは別ですよね。
このスピリチュアルの考えは私にはとても理に叶ったものに思えました。
だって前世の記憶を持つ人がいたり、生まれ変わりとしか思えない現象って、世界中にいっぱいありますよね?
それらについて合理的な説明や証明ができないから「生まれ変わりはない」とか「死後世界なんてあるわけない」と言い切ることはできないと思うんです。
そしてある時、私は体外離脱を経験しました。
体外離脱とは自分の肉体から意識が抜け出してしまう現象のことです。
こうしたことが起きるというのは話に聞いてはいましたが、実際に自分で体験してみると私にとってこれはもう肉体と意識が別物であるという否定しようのない「事実」となりました。
私にとって「肉体と意識が別物」であることは事実であり、体験として「知っている」ことなんです。
この経験をしてからは、私は死が怖くなくなりました。
だって死んだらどうなるかわかってしまったからです。
死は無ではなく、物質世界から非物質世界へ移行することである、と。
無ではないなら、現世での経験は意味のないものではなくなります。
思い通りに人生を生ききることができたなら、次の人生では全く違ったテーマで人生を生きればいいですよね?
また現世で思うように生きられなかったとしても、次の人生でもう一度同じテーマで生きてみればいいじゃないですか。
私たちの本質である意識が成長するために、いくつもの肉体で人生を繰り返す。
このように考えると、あなたの今回の人生のテーマが何なのか見えてくると思いませんか?
結局のところ
今回は、死んだら無になることについて私の理解していることを説明しました。
死とは単に肉体の機能停止のことであり、意識が消失することはない。
そう考えてはじめて分かることが数多くあるんですね。
自然科学を否定するつもりは毛頭ありません。
ありませんが自然科学を盲信するつもりも毛頭ありません。
そのへんのバランスを取ることで、世の中の見え方が変わってくると思うのですがいかがでしょうか。
というわけで、今回はこのへんで。
最後までお読みいただきありがとうございました。