あなたは「徳を積む」という言葉の意味をご存知ですか?
正確には分からなくても、なんとなく「自分の人生を好転させるために善いことをする」みたいな意味なのでは・・・?
くらいの漠然としたニュアンスは感じ取っているのではないですか?
今回は、徳を積むの意味についてスピリチュアルな視点から考えていきたいと思います。
そして多くの人が徳を積むの意味について、とんでもない勘違いをしていることを説明したいと思います。
徳を積むとはどういう意味か?
そもそも、徳を積むとはどういう意味なんでしょうか?
この言葉はもともと仏教から来ている言葉です。
日々善いことを行うことで、これまでの自分の不徳を許してもらい幸せを願う。
人知れず善い行いをしていれば誰も見ていなくても神様は見ていてくれる。
そうやって善い行いをすることで「徳」というポイントが貯まっていきます。
徳を多く貯めれば貯めるほど神様が幸せという褒美を与えてくれるので、どんどん善い行いを繰り返しましょう・・・と。
一般的にはこれが「徳を積む」意味と目的なんですね。
徳を積む方法とは?具体的に何をすればいいのか
意味は分かりましたが、では具体的には何をすれば徳を積むことになるのでしょうか?
調べるとさまざまなことが徳を積む「行動」として挙げられています。
それらの中から代表的なものをいくつか紹介しますね。
・いつも笑顔を絶やさない
・激しい感情をコントロールする
・不平不満を言わない
・他人を差別しない
・無駄なことに時間を浪費しない
・他人がしたがらないことを進んでする
などなどです。
腹が立つことがあってもぐっとこらえて誰に対してもニコニコと接し、たとえ不満があったとしても口に出さず、誰とでも平等に接し、あくせくせず、誰もがやりたがらないことを率先して行う。
端的に言えばこれが徳を積むということのようです。笑
普通に考えればこんな生き方を進んでしたがるような人は、そう多くはいないでしょうね。
それなのに、なぜ徳を積むことを奨励するのでしょうか?
なぜ徳を積むことを奨励するのか?
これはひとことで言ってしまえば「神様が見ている」からですね。
人は弱いものですから、誰も見ていなければついつい怠けてしまいますしやりたくないことは後回しにしてしまいます。
誰かが見ていれば、人はちゃんとしていられるんです。笑
ちょっと考えてみてくださいね。
あなたは外出する時には洗濯された清潔な服を着て出かけますよね?
でも家にいる時にはスウェットやシャツ1枚など、思いきりラフな格好をしていませんか?
これって外に出ると他人の目があるから変な格好はしていられない、けれども家にいる時には誰も見ていないからラクな格好で過ごすんですよね。
家にいて誰も見ていないにも関わらず、ドレスを着て過ごしたりスーツ姿で生活する人って、私はほとんど(というかひとりも)知りません。
でも実はただひとりだけ、そんなあなたを見ている人(?)がいるんです。
お分かりですよね、神様です。
あなたが何をしている時も、何もしていない時も、常に神様はあなたを見ているんです。
で、神様はあなたが誰も見ていないような場面で何をしているかを評価するんですね。
誰も見ていないところで善い行いをするのってとても難しいです。
だって誰も見ていないから。
誰も見ていなければ、それをやったかやらなかったか誰にも分かりませんよね?
だからこそ、そういう場面で善い行いをすることはとても大切なことなんです。
神様はそれを見ていて、あなたに「徳」というポイントを与えてくれるんですね。
このポイントは集めれば集めるほどあなたの人生が豊かになっていくというものです。
これは貯めない手はありませんよね。笑
こうした理由から「徳を積みなさい」と言われるわけです。
でも、私にはこの考えに違和感を感じざるを得ません。
その理由をお話ししますね。
あえて徳を積む生き方を勧めない理由
私が徳を積むという考えに違和感を感じるのは、そこに宗教的な打算があると思うからです。
徳を積みなさい、そうすれば死んだ後に天国に行くことが出来ますよ、みたいな。
徳を積むとそれを神様が見ていて、今までの不徳を許してくれる、とか。
なんだかな、と思います。笑
誰のための人生ですか?
神様に許してもらうために、自分がやりたいことも我慢して24時間365日善い行いに勤めなさい。
徳を積むとは、極論すればそういうことです。
ここであなたに質問です。
あなたは何のために生まれてきたのでしょうか?
これは人間の生命に関する根源的な問いかけですから、簡単に答えられないかもしれませんね。
しかしながら神様のため、神様に自分の善い行いを見てもらうため、そして人生を終えた後に神様に天国に連れて行ってもらうため・・・ではないはずです。
あなたという存在をスピリチュアルに考えると
あなたが今回、あなたという人間として生まれてきたのにはきっと大切な意味があります。
そしてその意味を数十年かけて探し求める・・・それが人生というものだと私は思います。
あなたが今回の人生で学ぶべきは、両親を通して、友達を通して、恩師を通して、そしてあなたと関わるあらゆる人を通して様々な気付きを得ていくことでしょう。
その過程では、あなたの感情を激しく揺さぶるような出来事も起きてくるでしょうし、人を傷つけ人に傷つけられることも多々あることでしょう。
自分が満足するために誰かを踏み台にするかもしれませんし、嘘をついて他人を陥れることもあるかもしれません。
決して善い行いだけで生きていくわけではありませんよね?
善い行いとは真逆の行為から学ぶようなことだって多々ある筈ですし、それがあなたの人生にとってかけがえのない経験として輝きを放つ日が来るかもしれません。
スピリチュアル的に考えれば、あなたがどんな行いをしたとしても、そこからあなたが学ぶべきことが必ずあるといえます。
それが善い行いでも悪い行いでも、あるいは何も行わないという選択をしたとしても、そこにはあなたが今回の人生で学ぶべき「何か」が必ずあるはずなんです。
そうでなければ、その出来事があなたの身に起きてくる筈がないんです。
どんなことであれ、あなたの人生にとって必然として起きてくるのですから、そこから学ぶべきことは必ずある筈なんです。
たったの数十年の人生であなたが学べることなんてたかが知れています。
神様の顔色をうかがって「神様が見てるから善い行いに徹しよう」なんて悠長なことを言っている場合ではないんです。
徳を積むなんてことを考えている暇はありませんよ。
自分の人生をとことんしゃぶり尽くせばいいじゃないですか、善いことも悪いことも。
徳を積むのではなく、自然体。
これがあなた自身の人生を謳歌するために必要なスタンスだと思いませんか?
まとめ
今回は徳を積むという言葉の意味について考えてきました。
徳を積むことが良いことだと無条件に信じている人も多いことでしょう。
徳を積むという行為は、神様の顔色をうかがいながらやりたいことを我慢する生き方、とも言えるのではないか。
それが今回、私があなたにお伝えしたかったことです。
あくまで私の主観であり徳を積む生き方を否定するつもりはありませんので、そこのところは誤解なきようお願いします。
特定の宗教から距離を置き、スピリチュアルな視点で人生というものを考えてみると、善い行いという概念自体も非常に危ういものであることが分かります。
善とか悪という概念は人間が生み出したものであり、もともと宇宙には存在しなかったもの。
宇宙にあるのは「変化」のみです。
その「変化」からなにを学び取っていくのか・・・これが人生の究極の目的ではないでしょうか。
というわけで、今回はこのへんで。
最後までお読みいただきありがとうございました。