
日本における生まれかわりの事例として
小谷田勝五郎の生まれ変わりを紹介しました。
▼関連記事▼
生まれ変わりの日本における研究は意外にもかなり古くからあった?
これは江戸時代に実際にあった生まれ変わりの事例として有名ですが
今回この地を訪ねてみました。
江戸時代に実在した生まれ変わりの体験者「勝五郎」とは
江戸時代に実在した生まれ変わりの話とは、文政5年(1822年)に中野村(東京都八王子市東中野)に住む勝五郎(8歳)が語った話です。
勝五郎は「自分の前世は藤蔵という少年であり、程久保村(東京都日野市程久保)に住んでいた」と語ります(日野市郷土資料館にて提供されている資料による)
勝五郎が語った前世(藤蔵)のことや、藤蔵として暮らしていた程久保村のことは驚くほど詳細かつ正確でした。
当然のことながら勝五郎は生まれてから一度も程久保村には行ったことがありませんでした。
つまり、勝五郎が程久保村について知っているはずがないにもかかわらず、です。
また勝五郎の家族や知り合いたちも程久保村との交流は一切ありませんでした。
勝五郎が程久保村について語れる道理がない・・・にもかかわらず、驚くほどに詳細まで正確に語った。
こうしたことから勝五郎が語った生まれ変わりの話は、非常に信憑性が高いと言われています。
このへんの詳細については以下の記事に詳しく書きましたので併せてお読みください。
▼関連記事▼
生まれ変わりの日本における研究は意外にもかなり古くからあった?
今回はこの藤蔵・勝五郎の生まれ変わりを記念して立てられた碑が高幡不動にあるというので、その地を訪ねてみました。
藤蔵・勝五郎生まれ変わりゆかりの地記念碑

高幡不動にある「記念碑」への案内板
藤蔵・勝五郎の生まれかわり物語は地元の東京都日野市では有名です。
2006年から日野市郷土資料館が中心となり「勝五郎生まれ変わり物語探求調査団」を結成しました。
そして2015年には勝五郎生誕200年記念に「勝五郎生まれ変わり物語調査報告書」を刊行しています。
さらに2018年には日野市高幡不動尊に記念碑を立てました。
実際の記念碑
藤蔵の生家は碑の立つ高幡不動尊の南に一山越えたところにあります。
そして藤蔵の生家があった場所には現在も子孫が生活しているそうです。
藤蔵の生まれ変わりである勝五郎は藤蔵の住む程久保からさらに南西に行った場所に住んでいました。
勝五郎が住んでいた場所は現在の中央大学(多摩校舎)正門の近くに当たります。
今も残る当時の面影

勝五郎は自分の前世である藤蔵が暮らした程久保村を祖母と訪ねます。
勝五郎の住む中野村から程久保村へは現在の中央大学の敷地内を通り北東に進んでいくことになります。
そしてなんと当時の面影そのままの道が中央大学のキャンパス内に残されているというんです。
先日、私は中央大学の多摩校舎を訪ね、当時の面影を探してみました。
正門から入り、なだらかな坂道を登りつつ右側を見ると、そこは雑木林が生えており自然がそのまま残っていました。
この辺に勝五郎の道があるのではと探してみましたが、現在はもう当時を忍ばせる「道」らしきものは存在しませんでした。
なだらかな斜面に遊歩道のようなものが作られており、学生や職員が散策できるようになっていました。
実際に勝五郎が歩いた道を確認することは出来ませんでしたが、この辺を歩いたんだな・・・と思い付近を歩くことで、なにか感慨深いものを感じました。
当時の面影を感じてみたい人は是非一度、中央大学を訪れてみては?
藤蔵・勝五郎生まれかわりの研究成果

勝五郎生まれ変わり物語探求調査団による勝五郎生まれ変わり物語調査報告書は、日野市郷土資料館で入手(有料)することが出来ます。
本稿では紹介しきれない情報がふんだんに紹介されていますので、興味のある方は入手されてみてはいかがでしょうか。
まとめ
勝五郎の生まれ変わりが貴重なのは、前世(藤蔵)も勝五郎も実在したことが明確に分かっている点です(資料で存在が確認されている)
このため生まれ変わりの事例としては信憑性も高く、かつ日本での話なので親しみやすいですよね。
生まれ変わりの有無について、本当のところは誰にも分かりません。
ただ、日本国内のみならず世界各地で様々な形で語られていることも事実です。
無理に信じる必要はありませんし、否定的に捉えてもそれはあなたの自由です。
ただ私は、生まれ変わりの存在を認めることでなんとなく人生が楽に感じられたのも事実。
藤蔵の墓も高幡不動尊にあり、また勝五郎の墓も八王子市柚木にある永林時にあります。
藤蔵、勝五郎の墓を巡りつつ、当時に思いを馳せてみるのも一興かと。


