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【詳述】人は死んだら49日までどうしてるのだろう?スピリチュアルな解釈で説明すると

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人は死んだら49日までどうしてる?

人が亡くなって、その喪が明けるのは死後49日と言われています。

49日を過ぎてはじめて「ああこれであの人も無事にあの世に旅立った」などと、親や祖父母が話していたのを聴いたことがあるのでは?

だとすると、喪が明ける49日までは亡くなった人は成仏できず家族の近くにいると言うことでしょうか?

結論から言えば、そんなことはまったくありません。

では49日まで亡くなった人はどうしているのでしょうか?

今回は亡くなった人の「49日問題」について、スピリチュアルな視点からしっかりと説明していきますね。

 

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人は死んだらどうなるのか

人間、どんな境遇のもとに生まれて来たとしても、数十年後には必ず死にます。

これは例外なくすべての人に平等に起こることです。

で、ほとんどの人は自分の人生を100%満足した形で終わるわけではなく、いくつもの「やり残したこと」を抱えたままあちらの世界に旅立っていくわけですね。

それはみんな分かった上で生きている。

だからこそ死んだらどうなるのかが、ことさら気になるわけです。

あなたは、人は死んだらどうなると思いますか?

人の死に関する答えは数多く存在します。

そしてそのどれもが「絶対に正しい」とは言い切れません。

なぜなら死んだらどうなるか、見てきた人は誰もいないからですね。

え、臨死体験であの世を垣間見た人がいるではないか、と思うかもしれませんが、あれはあくまで「臨死」体験であり、死後世界を見たわけではありません。

そういう意味では、臨死体験は死の手前すなわち「生の終端」を垣間見たに過ぎないといえます。

死の手前は死とは異なると考えるべきで、臨死体験者の話を絶対視するのは危険だというのが私の見解です。

では死んだらどうなるのか、それぞれの立場の「結論」を見ていきましょう。

 

科学的に説明すると

まずは最も受け入れられていると思われる「科学」の視点から。

科学という学問は「見えるもの」を扱います。

肉眼で見えるという意味に限らず、望遠鏡や顕微鏡などを用いて存在が確認できるもの、また各種測定器を用いてその存在を測定できるものはすべて科学の研究対象となります。

つまり科学とは「物質」を研究する学問と言うことですね。

ここでいう「科学」とは、社会科学や人文科学なども含めた広義の科学を指しているのではなく、自然科学を対象とした狭義の科学を「科学」と称しています。
このため哲学や心理学、経済学、政治学などは「科学」の範疇に含めていません。
この点、誤解なきようお願いします。

また科学の特徴として、未知の事象に関しては仮説を立ててそれを立証することで、その仮説が正しいことを周知させるという手法をとります。

こうした公平かつ適切な手法によってその存在が確認されたものは私たちの周りに数多く存在します。

しかしそれでも森羅万象のほんの僅かに過ぎません。

そもそも世の中に存在するのは「見えるもの」だけではありません。

見えるものに限っても、科学が明確な答えを示せるのはほんの僅かであり、そういう意味ではまだまだ科学で物事のすべてを説明することは出来ていません。

ですから、まず最初に科学が万能であるかのように思うのは幻想である、ということをしっかりと認識する必要があります。

その上で、人間の死について科学ではどのような見解を持っているのか。

現段階で、科学は死に関して「答え」を見出せていません。

ただ、現段階で科学は「人は死んだら無に帰す」と言えそうだ、と言っています。

これは人間は肉体がすべてであり、死ねばその肉体は機能を停止してしまい、従って脳も機能停止するからだと。

脳が機能停止すれば、脳に蓄積されていたすべての記憶、すなわち生前のあらゆる経験やそれに伴う感情の変化、数々の思い出なども脳とともに消えて亡くなってしまうため、肉体が朽ち果てるだけでなく人生のすべての記憶も一緒に消えて亡くなる、と。

科学では、こう説明するしかないんですね。

だって科学って「見えるもの」を研究する学問ですから、死によって肉体の機能が失われれば、そこには何も「見えるもの」が存在しなくなりますから。

もちろん、遺体とか白骨とかそういうものは残りますが、それらはもはや「見える形」での情報はなにひとつ与えてくれません。

だから死んだらどうなるか、科学的には何も情報がないんです。

それを「死んだら無に帰す」と表現していますが、正確には無に帰すことすら明確に証明できていません。

つまり科学では死について「肉体が機能停止する」としか言えないということです。

その状態が果たして「無」なのかどうかは、科学は答えを持っていません。

 

宗教的に説明すると

これに対し、宗教では死についてさまざまなことが言われていますね。

しかし宗教によって言っていることは大きく異なり、どれが本当なのかよく分からないというのが正直なところでしょう。

それも当然で、どんな宗教にしても基本的には「人間が作り出したもの」なので、作った人が違えば結論も違ってきます。

特に宗教というのは教条により集めた人すなわち信者を縛り付けます。

神を信じなさい、信じるものは救われる・・・

これって、信じないと救われませんよ、ということです。

つまり宗教とは、自分たちに従順な人だけに向けたものだと言うことです。

勘違いして欲しくないのですが、私は宗教を否定しているわけではありません。

宗教によって救われたという人は世界中にたくさんいますし、それを信じることは決して悪いことではありません。

ただ、そこで語られる神という存在は、その宗教の信者にとってのみ御利益のある存在であることを忘れてはいけません。

神を信じることで、死後は神のもとに召される・・・

いくつもの宗教では似たようなことを言います。

果たして神のもととは宗教ごとに違うのでしょうか、それとも同じ場所なんでしょうか。

はっきり言いますが、宗教の教えは信者獲得・囲い込みのためのものですから、それが真実かどうかを議論すること自体意味のないことです。

 

スピリチュアルな視点で説明すると

一方、スピリチュアルでは特定の宗教に肩入れした考え方はしません。

一部のスピリチュアルは宗教色の強いものもありますが、私に言わせればそれはスピリチュアルではなく宗教、もしくはスピリチュアルビジネスに近いものです。

スピリチュアルに関しては、広義には宗教も含まれますが、ここで言うスピリチュアルとは主に霊世界・精神世界・超自然など宗教色を伴わないものに限定しています。
科学が見えるもの(物質)を対象にした学問であるとすれば、ここで言うスピリチュアルは見えないもの(非物質)を対象にした研究分野といえます。

で、死んだらどうなるのかをスピリチュアルの視点から考えると、次のようになります。

「無限の存在である意識(魂)が、有限の存在である肉体を失う」

ここで分かることは、科学の視点とは根本的に異なるということです。

科学では「人間は肉体がすべて」という視点に立脚しており、意識も肉体の一部である脳が生み出したもの、と考えます。

だから科学では人の死は「何もかもが消えてなくなる」と捉えるわけですね。

しかしこの考えに立った場合、いくつかの説明不能な疑問が生じます。

それは「生まれ変わり」に関する疑問です。

科学ではそんなもの単なる空想であり実際には生まれ変わりなんてありえない、というでしょう。

しかし、生まれ変わりを認めない限りどうしても説明の付かない事例は世界中にたくさん存在することも事実です。

なお、生まれ変わりに関しては以下の記事も併せてお読みください。

▼関連記事▼
生まれ変わりについて、さまざまな角度から考えていきます。

この「科学ではどうにも説明できない」生まれ変わりに関するさまざまな疑問は、スピリチュアルの視点に立つことでいとも簡単に説明できてしまいます。

それは、

「人間は肉体だけの存在ではない、肉体と意識(魂)の合わさった存在である」

という考え方です。

人間は肉体という「物質」と意識という「非物質」が一体化した存在であり、私たちが死と呼ぶものは肉体が機能停止した状態に過ぎない。

肉体は有限の存在なのでいずれは老化し機能が停止するが、意識は物質ではないため朽ち果てることがない、つまり意識は無限に素材し続けるというわけです。

この考え方に立脚すると意識は肉体の死と同時に肉体から離れ、別の肉体と一体化する。

これが生まれ変わりというわけですね。

つまりスピリチュアルな視点で死を考えた場合、死とは単に肉体が機能しなくなったことであり、意識は相変わらず残るわけで、死がすべての終わりではないんです。

死ぬことで無に帰すこともありませんし、別の肉体を渡り歩いて永遠に生き続ける、と。

スピリチュアルでは人間の主体は肉体ではなく意識の方にあると考えます。

ただし私たちが認識している「私」というアイデンティティは肉体ごとに存在するため、生まれ変われば以前の「私」ではなく、新たな肉体で新しいアイデンティティを形成していくわけです。

ところがごく希に、前の人生の記憶を忘れることなく持ち続けてしまう人がいます。

これが前世・過去世の記憶となるわけですね。

いずれにしても、スピリチュアルでは死というのは肉体にのみ訪れるものであり、意識は死ぬことはないと考えるということです。

 

 

死後世界に関するいくつもの疑問

これまで科学が万能だと信じてきた人にとって、スピリチュアルな視点の考え方はなかなか受け入れがたい部分があると思います。

しかし、科学で説明する死では死後世界に関していくつもの疑問が残ってしまいます。

加えて科学ではこの死後世界については一切説明が出来ません。

だから「死後世界の存在は確認できない」というのが現段階における科学の正式な結論なのですが、これを多くの人が「死後世界の存在が確認できない」を「死後世界なんて存在しない」と曲解している、というわけです。

事ほど左様に、科学では死後世界が存在しないなんて一言も言っていないんです。

ただ存在を確認できない、証明できないから「存在するとは言えない」ということ。

そりゃそうでしょう、科学は「見えるもの」すなわち「物質」を対象にした学問ですから、死後世界のように「見えないもの」すなわち「非物質」に関しては完全に守備範囲外なんですよ。

だから科学で死後世界について語ること自体、まったく意味のないことです。

非物質世界のことは、非物質世界を専門に扱う分野に任せておけばいいんです。

非物質世界を専門に扱う分野、スピリチュアルに。

ということで、ここからは科学や宗教などから生じた死についてのさまざまな疑問をスピリチュアルな視点から説明していきます。

 

死んだら無に帰すのか

前段でも説明しましたが、科学のいう「死は無に帰す」という理解について、スピリチュアル的に突っ込んで説明します。

先ほども言ったとおり科学は物質を対象とした学問ですから、物質ではないものに関して言及すること自体に無理があります。

そして死というのは人間が物質として存在できなくなることのため、科学の立場としてはもう何も言うべきではないんです。

肉体がなくなるのだから意識も何もかもなくなるに違いない、だから死ねば何も残らない、と。

これは人間の存在を肉体のみと前提したために起きる誤解です。

人間は肉体だけではなく意識が独立して存在する。

このことを科学では説明できないわけです。
なぜなら意識には形がない、非物質だから観察も測定も出来ないから。

スピリチュアルで考えた場合、肉体が死んでも意識は残ります。

そして今まで見聞きしてきた物質世界とは別の世界に移行します。

別の世界、すなわち非物質世界ですね。

非物質世界には物質が存在しませんから、時間も空間もその概念すら存在しません。

この辺のことは説明し始めるととても長くなってしまうため、興味なる方は以下のリンクを参照してください。

▼関連記事▼
死後世界はあるのかないのか、知られざる死後世界の全貌

あの世について徹底的に解説していきます。

つまり、死んだら無に帰すということはありませんから安心してくださいね。

 

死んだら死んだ人に会えるのか

不慮の死を遂げた家族や友人知人がいる人にとって、どうしても心残りの出来事はつきまといますよね。

で、自分が死んだら先立った人と会い、話をしたりやり残したことを思う存分やりたい。

そういう思いをお持ちの人も少なくないことでしょう。

宗教ではこうしたことが普通に出来るようなことを説いているものもありますし、死ねばみな神のもとに召されるのであって話をしなくても幸せだと説くものもあります。

この「死んだら死んだ人に会えるのか」問題について、スピリチュアルの視点から考えると、ちょっと複雑です。

まず、私たちが一般的に認識している死とは「肉体の機能停止」のことを指しますから、意識が肉体を離れ物質世界に束縛される理由がなくなった状態といえます。

つまり死後世界とは非物質世界のことであり、そこには物質世界のような「個」という概念そのものも存在しません。

ということは、あなた、私、あの人、みたいな個としての区分が存在しないと言うことになるため、先立った人という区分もないことになります。

非物質世界においては個が存在しないので、あなた、先立った人、という区分も存在しない。

従って、死んだら死んだ人に会う。という概念すら存在しないことになります。

つまり物質世界でいう「会う」という概念そのものが意味をなさないんです。

で、結局死んだら死んだ人とあるのでしょうか?

会うわけではありませんが、互いの思いは手に取るように分かるようになります。

個ではないというのは、あなたも私も先立った人もすべてを含んでいるという意味ですからね。

 

死んだら自分の意識はどうなってしまうのか

個という概念が存在しない、というのは詰まるところ「すべてが融合している状態」と解釈することが出来ます。

これをもう少し柔らかい言い方で言えば「あなたは私、私はあなた、私はすべて、すべては私」という感じでしょうか。

肉体と意識が一体化しているときには、肉体の脳で理解できることがすべてのように感じていますが、実は私たちが普段認識していない知見はたくさんあるんです。

よく意識の話をする際に、潜在意識と顕在意識という説明をしますよね。

顕在意識とは私たちが認識している部分であり、潜在意識というのは私たちが認識していないものの存在する意識のことですね。

そして、潜在意識は顕在意識の何倍もの大きさ(ボリューム)があると言われています。

要は私たちが意識として認識しているのは全体のほんの僅かに過ぎないということですね。

これは肉体が機能している間は脳を介して物事を認識しようとするからですが、死ぬと脳を介して認識する必要がないため、潜在意識も顕在意識も区分なく認識できるようになります。

これにより私たちは死ぬと、肉体を遙かに超える知見を得ることになり、何もかもが分かるようになります。

この違いをもう少し説明しますね。

生きているとき、私たちは今この瞬間を知覚することが出来るだけであり、それ以外はすべて記憶を呼び出していることになります。

このため、このごとの経過を理解するために「時間」という概念が生まれてきたわけですね。

肉体の脳は常に今この瞬間以外は認識できませんから、過去の瞬間の記憶を順番につなぎ合わせて出来事のストーリーとして認識するわけです。

ところが、死ぬことによりこうした記憶もすべて含めた膨大な情報を知覚できるようになるため、過去も現在も、これまでに起きた出来事のすべて(自分の経験に限らず全宇宙の出来事すべて)が渾然一体となって分かるようになります。

それがどういう状態なのか。

さすがにこればかりは「死んでみなければ分からない」ことです。

人間の脳で理解できる範疇を遙かに超えた状況であることは確かですが、超えているが故に理解も出来ないでしょう。

 

で、死んで49日までは魂はどうしているのか

さて、いよいよ今回の本題である「49日」問題です。

ここまでお読み頂いたなたならもうお分かりかと思いますが、49日とか何の意味もないです。

仏教の教条に示されているに過ぎず、肉体を失った意識(魂)がその教条に従うはずもありません。

これは信仰の問題であり、仏教徒にとってはその教条に従ってさまざまな式典を執り行えば良いだけのことです。

仏教以外の宗教で49日という発想はありません。

このため49日を意味づけするような式典もなければその間は喪に服すという思想もありません。

宗教を無視すれば、人は死ねば非物質世界へと移行し個から全体へと知見を広げる。

49日なんて何も関係ありません。

 

結局のところ

今回は、人は死んだら49日までどうしているのか、についてさまざまな側面から説明を試みました。

結局のところ、49日というのは仏教の教条から来るものであり実際に意識(魂)がそれに従うと信じること自体意味のないことです。

宗教は人の内面を救済するために大きな力を発揮しますが、だからといってそれを実際と混同してしまうのは避けたいものです。

 

ということで今回はこの辺で。
最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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